“本物のおいしさ”
~創立・戦争を乗り越えて~
一流の洋菓子メーカーを目指して創立したモロゾフ。
戦争による苦難の時代を乗り越え、復興を果たします。
1931年8月8日、神戸モロゾフ製菓株式会社を神戸市に設立しました。
1931年8月、モロゾフは「神戸モロゾフ製菓株式会社」として誕生しました。
神戸のトアロードでチョコレート、キャンディショップを経営していたロシア人のフィヨドル・ドミトリー・モロゾフ氏が、神戸商工会議所へ共同経営者の紹介を依頼したのがきっかけで、同所の常議員であった葛野友槌(初代社長)が経営参加し、神戸モロゾフ製菓株式会社が設立されました。
国内ではまだチョコレートが珍しい時代に、フィヨドル・ドミトリー・モロゾフ氏の技術を生かした高級チョコレートを製造、販売。贅沢なボックスに眠る宝石のように美しいチョコレートは、ギフトとしての高級スイーツという新しいスタイルを生み出しました。
創業当時のシンボルマークはモスクワのクレムリン宮殿にある世界一巨大な釣鐘をモチーフにしたものでした。
モロゾフのチョコレートは“本物のおいしさ”をたくさんの人たちに親しんでほしいとの想いからスタートしました。
モロゾフのチョコレートは、良質でおいしいチョコレートのほとんどが海外からの輸入だった時代に、「外国のチョコレートにも引けを取らない“本物のおいしさ”をたくさんに人たちに親しんでほしい」という想いからスタートしました。以来モロゾフは、ヨーロッパの高級チョコレートをイメージしながら、同時に日本人の味覚に合う独創的な味わいを追及してきました。多彩な味と食感の重なり、一粒に趣向を凝らした美しさなど、丁寧なものづくりから生まれるモロゾフのチョコレートは、まさに“ジャパンクオリティ”と言えるおいしさと価値を表現しています。色、形、味、食感のすべてが響き合う、味わい豊かなチョコレート。贈り物にふさわしいこだわりの味と美しさは、創業以来モロゾフの願いであった「スイーツを通じた贈り物文化」を生み出すことになったのです。
今も愛され続けているウイスキーボンボン。創業以来のロングセラーです。
ウイスキーボトルの形をした、愛らしいチョコレート。しゃりっとした繊細な食感とともに、スコッチウイスキーの芳醇な味と香りが楽しめます。この独特の味わいのウイスキーボンボンは1931年のモロゾフ創業とともに誕生しました。そもそもウイスキーボンボンの原型は、中世のフランス宮廷で流行した「ボンボン・ア・ラ・リキュール」。フランス語で“良い”を意味する「bon」を重ね、“酒入り”という意味の「a la liqueur」を合わせた言葉で、砂糖の再結晶化を利用したお菓子のこと。
モロゾフは伝統的な手法で作ったクリスタルシュガー(結晶化した砂糖の殻)の中に贅沢なスコッチウイスキーを閉じ込める製法にこだわり続けています。一度食べたら忘れがたく、いつの時代も変わらないこだわりの味。ほかにはないモロゾフのおいしさをこれからも守り続きていきます。
モロゾフは日本で初めて〝バレンタインデーにチョコレートを贈る〟というスタイルを紹介しました。
創業翌年の1932年、モロゾフは日本で初めて〝バレンタインデーにチョコレートを贈る〟というスタイルを紹介しました。「欧米では2月14日に愛する人に贈りものをする」という習慣を米国人の友人から聞き知った創業者が、この素晴らしい贈りもの文化を日本でも広めたいと考えたことがきっかけでした。当時のカタログにも掲載されているバレンタインギフトは、大切な人への想いを伝えるにふさわしい特別な贈りものとして、人々に夢とロマンを与えました。バレンタインデーが浸透した今もモロゾフは、贈る人、贈られる人の想いを大切にしたチョコレートで、たくさんの愛を伝えつづけています。
バレンタインとモロゾフについて
創業当時も主力商品であったチョコレートやキャンディは暑さに弱く、夏期の販売には不向きでした。そこで西宮市の甲子園浜にビーチショップを出店し海水浴客にスイーツを販売していました。
モロゾフは日本で初めてピロシキを発売しました。甲子園浜ビーチショップで販売し好評を得ました。喫茶併設の東京銀座の店舗では文化人に愛されたそうです。
全国的な会社に育てたいとの思いから、「神戸モロゾフ製菓株式会社」の「神戸」を外し、「モロゾフ製菓株式会社」となりました。
太平洋戦争の開戦に伴い、統制品である洋菓子の原料の入手が困難となり、当社は苦難の時代を迎えました。
1939年10月にはカカオ豆の輸入がストップし、1941年に入ってからは統制品である洋菓子の原料の入手が困難となり、当社は開店休業に近い状態となりました。
化粧品、栄養剤、佃煮、ふりかけ等、統制品以外のものを生産、販売し、何とか経営を維持していました。
1941年12月に太平洋戦争が開戦すると、モロゾフの工場も軍の要請により強制的に、明け渡さざるを得なくなりました。従業員の雇用を守り、会社を維持するため、当時神戸の御影にあった昭和製菓合同会社と企業合同し、昭和モロゾフ合同製菓有限会社(後の興南糧食工業株式会社)を設立しました。
モロゾフ製菓株式会社の名前を何とか残すために商事部門を神戸市生田区に移転しましたが、火災により焼失し、海岸通3丁目にあった日豪館というビルの一室に事務所を設けて細々と名前を維持していました。
1945年3月17日の神戸大空襲により、神戸の街は焼け野原となりました。同年6月には日豪館の事務所も、葺合区にあった「うに」瓶詰作業所も、興南糧食工業の御影の工場も空襲により完全に消失してしまいました。
モロゾフも復興に向けた苦難の時代を迎えます。
葛野友太郎が2代目の社長に就任。1983年に会長に就任するまで42年間社長を務め、モロゾフの発展に尽くしました。
1942年8月31日、初代社長葛野友槌の後を受け、葛野友太郎が2代目社長に就任しました。「当社は健康であり、清潔であり、良心的な企業で、質において常に一流であり、世界に通用する企業となる。」を経営理念に、モロゾフは大きく発展します。(初代社長葛野友槌は1943年2月享年69才にて逝去しました)
モロゾフの社風である、誠実さやまじめさ、本物志向、先進性などの特徴は葛野友太郎の経営理念の影響を強く受けています。葛野友太郎の教えは、「葛野語録」や「いろはカルタ」などの形で残され、今もモロゾフの役員や従業員に脈々と受け継がれています。
葛野友太郎は1983年に社長を退任し、会長、相談役を歴任。1992年に逝去するまでモロゾフの発展に尽くしました。
1946年神戸そごうの地下で喫茶を開店し、モロゾフの復興の第1歩を踏み出しました。
1946年神戸そごうの地下で喫茶を開店することとなりました。ところが材料を仕入れる資金もなく、社長の葛野友太郎が友人から5万円の借金をして喫茶の営業をはじめました。非常に繁盛し、利益を出すことができました。そこで、店の一角に小さな事務所を作り、モロゾフの復興の第1歩を踏み出しました。(この喫茶は1953年に閉店しました)
1947年12月、神戸市葺合区(現在の中央区)に土地65坪、建坪16坪の小さな工場を建設し、オガ屑のパンガマを据え、わずか従業員3名で戦争からの復興に向け三宮店のケーキの生産を開始しました。
翌1948年にはモロゾフの商品を生産していた興南糧食工業でキャンディの生産を開始、1949年には板チョコレートの生産を開始しました。興南糧食工業は1962年にモロゾフ製菓と合併することとなります。
戦後、本格的なチョコレートを製造する原料が入手できない時期は、モロゾフもチューインガムを製造し、タバコ屋の店先で販売していました。
チョコレートの原料の輸入が可能となり、ようやく本格的にチョコレートの生産ができる体制になりました。
チョコレートの原料が手に入らない時期、なめし皮用に使われていたグルコースを原料にした到底味覚に堪えないチョコレートが世の中に出回っていました。
モロゾフは決して偽物のチョコレートは作らず、本格的なチョコレートができるまで待つという方針を貫きました。そのため、資本の蓄積や従業員の確保が遅れていましたが、1950年7月からはカカオ豆など、チョコレートの原料の輸入が僅かではありますが可能となってきたため、同年10月には葺合工場を増築して本格的な菓子作りへの第1歩を踏み出しました。翌1951年にはようやくチョコレートの生産に重点を置くことができるようになりました。
1952年には砂糖の統制が撤廃され、チョコレートの生産も軌道に乗ってきました。百貨店への出店も相次ぎ、洋菓子メーカーとして、本格的な製造、営業ができる体制になりました。
チョコレートの生産が本格化し、新商品も次々に誕生しました。“ベニス”はピュアチョコレートの詰め合わせで、季節によって、パッケージのカラーを変更していました。
神戸市東灘区に東明工場を新設し、チョコレートを製造しました。
1957年8月、東明工場を土地252坪、建坪延96坪の小規模ながらも神戸市東灘区に新設しました。ファンシーチョコレート、ピュアチョコレート、チョコレートバーなどを製造。戦後、ようやく製菓工場らしい工場を持つことができました。
翌1958年7月には、チョコレートの製造に欠かせないココアバターの輸入が自由化され、チョコレート産業の大きな発展につながりました。
モロゾフも戦後の復興を果たし、成長の時代へとつながっていきます。
今でも定番商品の板チョコ入りクリスマスカードが誕生しました。
切手を貼って郵送できる板チョコ入りクリスマスカードは今でもモロゾフ定番のクリスマス商品です。食べられるクリスマスカード”Eatable Christmas Card of Chocolate”はモロゾフの登録商標です。発売当時は一部の店舗で大ブームになったそうです。